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― 僕はサラリーマンになる ―




■サラリーマンにはならない   

 現在、京都のとある大学に通う僕は、来年の四月でとうとう四回生になり、いよいよ就職活動というものが始まります。周りの友人たちは口々に、
「嫌やなー」
「ブルーになるわぁ」
 とボヤいていますが、僕には全く悲観的といった感じがありません。それどころか来るなら来いと、むしろ前向きな気持ちになってその日が来るのを待っています。
 まだ会社訪問さえしていない人間がこんなことを言うと、
“ただの世間知らずだ”
 と笑われてしまうかもしれませんが、僕はこの学生時代に、確かに納得のいく答えを見付けることが出来たのです。

 そもそも、二、三年前までの僕にとって就職とは、完全な自己の消滅、もっと言えば、人生の終わりのようなものを意味していました。
 世間でよく使われる「アフターファイブ」や、「五時から男」という言葉は僕に、そうでも言わなければやっていられないような日常があることを教えてきます。
 しかし僕はずっと自分に、俺はそんなものにはならない、と言い聞かせてきました。
 毎朝ネクタイを締め、同じ時間の電車に乗って揺られている自分の姿というものが想像することの出来なかった僕は、幼い頃から、芸能人やアーティストと呼ばれる人たちの自伝やエッセイといったものをあれこれと読んでは、将来自分のあるべき姿をそこに投影していました。そしてやっぱり僕も何かになれるのだろうと、疑いもなしに信じていました。
 それはきっと、同級生の皆が楽しそうにしていることが自分にはひどく幼稚に思えたり、僕がごく当たり前にしていたことが、「すごい」とか、「面白い」などと言われたりする、まあ少年期には有りがちな、思い込みというやつであった訳なのですが、それでも幼い僕に自分だけは違うのだ≠ニいうことを感じさせるには十分でした。
 その頃ほとんど恐いものなしだった僕は、友人と将来について語る時に決まって、
「俺はサラリーマンにはならない」
 と宣言してきましたし、またそうはなれないであろう自分のことを感じてもいました。
「将来、俺がネクタイ締めてるの見たら殴ってくれ」
 こんなことを皆に言っては、一人で納得していたものです。
 
 
■三流大学に入り‥‥

 中学を卒業する頃、僕は働くということについて、真剣に考えるようになっていました。 
 友人たちの間では、
「どうせ俺はサラリーマンになるんやろうな」
 とボヤく人が増えてきています。
 僕の両親は、父と母、二人共に公務員をしており、家族のために働いている両親を今までもちろん尊敬もしてきましたが、きっと僕は、普通には働けないと思っていました。
 母親はそんな僕に、
「何言ってんの、皆がんばってるんや」
 と言って叱ってきます。しかし僕は決してなまくらな気持ちなどで、働きたくないとこぼしてきたのではありませんでした。
 皆がんばってる……。
 そんな言葉だけで、僕はとても皆のように頑張れそうにはありませんでした。毎日同じことをやり続けていくなど、到底出来そうにありませんでした。
 僕にはその行為を真っ向から肯定してくれるような、そんな、力のある理由が必要だったのです。
 高校へ入った僕は、自分がサラリーマンにならずに済む方法を考え続けました。
 しかし答えは見つかりません。そしてそのまま、答えを見付けると言うよりも、答えの出る瞬間を遠ざけるためにといった感じで、大学を受験することになったのです。
 今から思えば、僕は現役の受験生にさえも「知らない」と言われてしまうような三流の大学へ入り、よくもあれだけ浮かれていられたものだと恥ずかしくなってしまいますが、毎日のようにやってくる楽しいイベントやサークル活動の日々に興奮しきりで、僕はすっかり時の経つのを忘れていました。
 昼どきのガラ空き電車も、歓迎会の催しも嬉しくてしょうがありません。
 まもないうちに授業にはほとんど出なくなり、
「今のうちに遊んでおかなきゃ」
 とノリまくっている友人たちに連れられて、僕も今が人生のときとばかりに遊び回っていたのです。


■運転手の日常

 しかしこの楽し過ぎるキャンパスライフとは裏腹に、僕にはどうにも滅入った気持ちにさせられてしまう時間がありました。
 地下鉄の駅から学校へ向かう、スクールバスの中での、七分間です。
 僕は通学路の都合上、その行き帰りにこのバスを利用することにしていました。車内には早朝から軽快なラジオの曲が響き、二十ほどある座席の中では、絶えず学生たちの笑い声が聞こえてきます。
 一見、大学生の浮き立った心を象徴するかのようなこのバスの中に、一ヶ所だけ、暗く沈んだ雰囲気のするスペースがありました。
 前方にある、運転席です。
 その席には、いつも同じ男性の運転手が座っていました。年の頃は四十くらい、中肉中背の体格にまばらな無精ひげを生やし、四角い眼鏡に、決まって水色のカッターシャツを着ています。
 僕はこの人の笑った顔を、あまり見たことがありませんでした。
 朝から夕方までの巡回を、おそらくたった一人でこなしているのでしょうが、学生たちとの接点はほとんどありません。毎朝、初めに乗車してきた学生に、
「おはようございます」
 と一度だけ言ってしまうと、後の人は知らないといったふうに、背中を向けたまま後ろを向こうとはしないのです。こちらが挨拶をしたところでそれは変わりません。
 僕にはこの人が、あるやるせない気持ちを抱えて仕事をしているように思われてなりませんでした。
 丸まった背中に、力なくハンドルを握る手。
 思えば僕は、「サラリーマン」と呼ばれる人の生活を目の当たりにしたのは、これが初めてのことでした。それは、学校へ通う行き帰りのたった十数分間のことですが、僕にはもうそれだけでこの人の一日というものが、見えてしまったような気がするのでした。
 これがサラリーマンの実態というものでしょうか。
 考えてみるとこの仕事には、気苦労が多いと思うのです。
 京都の山奥にある僕の大学へ通う道には、トラックやジープといった大型車がよく通るうえ、道路の幅も非常に狭いので、お互いがすれ違う時には、どちらかが譲り合わねばならないか、ひどい場合、バックをしなくてはならないことさえあります。僕はそのつらさを、免許を取った時に初めて知りました。
 さらには夏休みを間近に控えたある日、後ろにいた女子学生から聞こえてきたその会話を、僕は忘れることが出来ません。
「……でもあのおじさんってさ。この狭ーい円の中を、ひたすらグルグル回り続けてる訳やぁん」
「そうそう、それが“世界のすべて”っ、みたいな(笑)」
「キャハハ。そんな仕事、ぜっーたいイヤやな」
 反射的に沸いた僕の怒りの気持ちは、笑い声を立てている二人組に掴みかかりかねないほどでした。彼女たちの言葉は無邪気である分、いっそう残酷に響いてきます。
と言って僕には、その運転手を弁護できる何の言葉がある訳でもなく、またいつもの通りやってくるバスを、ただ悲しい気持ちになって待っているのでした。
 
 その頃、大学へ入ってから第一回目の就職ガイダンスが行われ、学生たちにこんなアンケートが配られました。
「あなたにとって、就職とは何ですか?適当なものにマルをつけなさい」
 下記の選択肢には、こんな項目が並んでいます。
1、人の役に立ち、社会に貢献すること
2、お金を稼ぎ、生計を立てること
3、仲間を作り、ネットワークを広げること
 などなど。
 そのどれもに自分に当てはまる回答を見出せなかった僕は、一番隅にある「その他」の欄に強くマルを付けると、頭へ浮かんできたネガティヴな単語を、次々に枠の中へ埋めていきました。
 暗闇、恐怖、悪夢、ネクタイ、自殺、満員電車……。
 およそ思いつく、自分にとってマイナスな意味の文字ばかりが、気持ち悪いほどのスピードで出てきます。そんな自分のことが少しイヤになりながらも、また僕はこうせずにいられなかったのです。
 周りを見渡せば、皆くそマジメな顔をして、あれだろうかこれだろうかと首をひねっています。僕にはそれがただ、就職という行為に真っ当な理由付けをしようとして苦しんでいるようにしか見えませんでした。
 正直に言おうよ。
 そんな彼らのことを胸の内で軽侮しながら、なおも浮かんでくる救いのない文字を、僕は枠をはみ出してまで書き付けようとするのでした。

 大学の一回生が、驚くほど早く終わっていました。
 上級生になったというのに、ちっとも嬉しくありません。去年一年間遊び回っていた僕も、就職の日が近づいてくることを思うと、もう無邪気にははしゃげなくなっていました。
 サラリーマンにはなりたくない、という気持ちは変わっていません。しかし、三流大学の肩書以外に何も持ち合わせのない僕が、そうならずに済む方法などあるのでしょうか。
 焦る気持ちを紛らすように、パソコンや映画制作などの講習会に顔を出していると、上級生の人からよく、
「何回生?」
 と聞かれました。僕が、二回生だと答えると、決まって彼らは、
「いいなー」
 という返事を返してきます。気味が悪いほどの羨望に満ちたその声を、僕はまたかと思いながらも、二年後にきっと同じことを考えるであろう自分の姿が浮かんできて、なおさらたまらない気持ちになるのでした。
 その頃の僕は、本気でこんなことを考えていたのです。
「サラリーマンになるくらいなら死んでやる――」
 

■出会い

 そんな僕に転機が訪れたのは、五月の連休を明けた日からのことでした。
 ゴールデンウィークを一日分勝手に延ばしていた僕は、眠たい目をこすりながらバスが来るのを待っていました。
「なあなあ、バスの運転手さんに、女の人、入らはったやろう」
「うーん、見た見た。びっくりしたわぁ」
 後ろで列を待っている学生から、こんな会話が聞こえてきます。
 ハァーア。
 そんなこと、別にどうだっていいやと思っていると、前方からこちらへ向かってバスを走らせてくる女の人が見えました。小さな体でバスを動かしているその人は、まだ若々しい顔立ちをしており、お姉さんと呼ぶのがふさわしい風采をしています。    
 いつもの通りゆっくりとドアが開き、学生が順々に踏み段を越えていきます。
 二限目の始業に伴うラッシュ時で、乗車がスムーズに行われていないのはいつものことでしたが、違ったのは入口付近の様子です。
 前の学生に続いて乗ろうと構えていると、
「おはようございます」
 という、女の人の声が聞こえてきました。
 何だか、久々に耳にする響きです。
 僕も踏み段へと足をやりました。すると、 
「おはようございます」
 というさっきの声と共に、顔いっぱいに笑顔を浮かべたお姉さんの表情が、僕の目に飛び込んできました。
 その人はわざわざ体をこちらへ向けて、バスへ乗り込んでくる学生たち一人一人に、元気に挨拶をしていたのです。 
「おはようございます」
 慌てて返した僕の返事は、少し詰まりながらもしっかりお姉さんの元へ伝わりました。
「おはようございます」
「おはようございます」
 声は繰り返しています。
 その元気な声の調子に、学生も一度は驚いた様子を見せますが、ハツラツとした彼女の表情に皆、つられるようにして微笑んでみせます。
 僕は何かとてもいい気持ちになって、だんだんと人で埋まっていくバスの中を、何だか嬉しく眺めていました。
 しかし正直に白状すると、僕は彼女の元気な挨拶も笑顔も、そう長くは続かないだろうと思っていたのです。
 あのウンザリするような作業の中で、同じ姿勢を続けていくのはとても無理なことのように思えました。ひどい言い方をしてしまえば、まあ仕事をしたてでハリキッているのだろうぐらいに考えていたのです。
 彼女が毎日していたのは、朝の挨拶だけではありませんでした。毎回、バスを降りていく学生には、
「行ってらっしゃーい」
 授業を終えて戻ってきた学生には、
「お疲れさーん」
 と、これまた元気に声をかけているのです。
 続くはずがない。そう信じていました。

 七月に入っていました。
 一ヶ月と続かないと思っていた彼女の明朗さは、衰えるどころか逆に、
「足元、気をつけてねー」
「ドア開きまーす」
 などと、日に日にその言葉数を増やしていきました。
 中でも僕が驚いたのは、挨拶をしているのに見向きもしない学生がいても、彼女は別に気にするふうでもなく、
「おはようございます」
「お疲れさまー」
 と笑顔で迎えていたことです。
 相手がどう思おうが関係ないよ。だって挨拶したら、気持ちいいやん。彼女のハツラツとした態度は、そう言っているふうにも見えました。
 僕はいつしか、彼女に会うのが楽しみになっていました。
 そしてそれ以来、僕の価値観も大きく変化していったのです。
 僕はずっと長い間、サラリーマンという職業に疑問を抱いてきました。それは、同じ作業をただ繰り返すだけの毎日というものに、何か底知れぬ不安や恐怖といったものを感じていたからです。
 大人たちは僕に向かって、いつも同じことを言ってきました。
「若いうちに遊んでおけ」
「好きなことが出来るのは今だけだ」
 何十冊と読んだタレント本は、ただ自分のやりたいことだけをやれとしか言ってきません。しかし僕のように、それだけでは食べていかれない人、またそれを見付けることさえ出来ない人が世の中には大勢いるのです。
 日々の生活を得るための、惰性のような暮らし。スクールバス運転手という仕事はまさに、サラリーマンの職業観を象徴しているかのようでした。
 しかしまた僕が、サラリーマンとして生きるために必要なメッセージをもらったのも、その運転手からだったのです。
 答えは、すぐそこにありました。
 それは、“挨拶をする”という、ただそれだけのことだったのです。そしてそこにこそ、僕の探していたものもあったのです。
あの運転手のお姉さんの態度や姿勢、声や表情は、自分のしていることすべてに対して、「イエス」と言っているように見受けられました。
 今ある日常を肯定すること。
 それを教えてくれたのは、本当にどこにでもいるような、当たり前の仕事をしていた人でした。
 僕がずっと探してきた日常における救いというやつは、実はどこにでも転がっていたのかもしれません。
 僕は目いっぱい、サラリーマンにまみれて生きていこうと思いました。

 


 

 


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