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サラリーマンへの手紙



 
 右足がとれかけたことがある。
 今から三年前のことだ。その頃猛烈な受験生だった僕は、エスカレーターに乗っているにも関わらず、それを駆け上がってしまうことが当たり前になっていたほど、常に時間に終われており、その日行われた駆け込み乗車もまた、すでに恒例になっていた行事の一環だった。
 大学受験を間近に控えた僕が、できるだけ早く帰宅したかったのも無理はない。
「列車が発車します」
 というアナウンスが階段途中で響いた時、両足は反射的に地面を蹴飛ばしていた。
 発車の笛が鳴りはしたが、すぐには出ないことを知っている。扉が閉まる寸前だったにも関わらず体を滑り込ませようとした僕は、地下鉄を見くびっていたのかもしれない。
 右足を踏み入れた瞬間に、ふくらはぎがドアに挟み込まれてしまったのだ。さらには動けなくなった太ももへ、二重ドアが襲いかかる。
 ここで、“発車オーライ”と勘違いした列車は、
 ゴトン……。
 と一度揺れ、そのまま動き出そうとしたのだ。
 パニック状態になる意識の中で、不思議と目だけは冷静に車内の様子を追っていた。
 遠くの方に腰かけていた男は異変に気がつくと、読んでいた新聞を放り投げ、ブチ当たりそうな勢いでこちらへ突進してきた。そして倒れ込むように両手を伸ばすと、力ずくでドアをこじ開けようとしたのだ。
 ピィー!
 というけたたましいサイレン音が鳴る。
 そこで再び列車が揺れた。
 やがて開いたドアの間から、僕は体を投げ入れた。
 振り上げた視線の先には、メガネのずれ落ちた恩人の顔がある。
 乗客の詰るような視線をひしひしと感じていた僕の、
「ありがとうございました」
 という声が、聞こえたかどうかは分からない。
 ともかく男は席につき、平然とまた新聞の続きに目をやった。
 僕はもう一度ちゃんと礼を言おうとして、男のいる席へ向かいかけたのだが、如何せん乗客の目が気になった。皆が皆、
「このバカが」
 という目つきで、僕のことをにらんでくるのだ。やっぱり彼が降りる時にしようと、先送りにしてしまったのがいけなかった。
 男の降りた駅は乗客の出入りが激しかったため、声をかけようにもそのスキがなかったのだ。
 やがて人ごみの中へと消えていく彼の姿を、僕は黙って見送っていることしかできなかった。あの時、なぜ走ってでも彼を追いかけていかなかったのかと、今も思う。
 男は七三分けだった。顔には特徴がない。本当にどこにでもいるような、サラリーマン風の姿容だった。
 僕はきっと彼に、一生礼を言うことができないだろう。なぜなら僕はあろうことか、我が身を救ってくれた恩人の顔を、ほとんど思い出すことができないでいるのだ。
 人を救うことのできる本当のヒーローは、案外、無個性な顔立ちをしているのかもしれない。
 スーパーマンが普段、背広を着ているという設定もうなずける。



 

 


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